「みんな真剣に考えてないのさ、痛みと人を殺すことの関係について。俺は死刑ってもんが必要なのかどうかはわかんねえけど、少なくても真剣に考える気はある。それについて責任を負う覚悟もある。けどその思いを利用しようとする奴らには虫唾が走るんだ」
(略) 被害者感情を軽視した死刑廃止論の奇麗事には辟易するが、被害者感情を利用して被害者加害者の対立を煽る事にも腹が立つということだろう。
彼ら(Zexion 注:犯罪被害者遺族会)は自分たち(Zexion 注:加害者家族)とは立場が違う。だが置かれた状況が違えば自分も彼らと同じ行動をとっていただろう。愛するものをなくした無念の思い。そのどうしようもない思いは同じだ。そのはけ口が違うに過ぎない。
人は苦しみがある時、それを誰かにぶつけたいと思う。ぶつけられるならいい。いやぶつけることが正当ならいい。死刑もその一つだ。だがそうでない時、その苦しみは何処に向かうのか。どう処理されるのか。
評価:
ソニー・コンピュータエンタテインメント ¥ 2,980 (2004-07-08) |
「ぼくのなつやすみ2 海の冒険篇」が、PSP用ソフト『ぼくのなつやすみポータブル2 ナゾナゾ姉妹と沈没船の秘密!』の完全リニューアル版として発売。 捕まえた甲虫の中から3匹を「お気に入り」に選んで、2周目に引き継げるようになっている。また、PSPの無線LAN機能(アドホックモード)を使って、「お気に入り」の甲虫を交換することも可能。 |
世の中におけるランダムネスの役割を理解する際の最大の問題は、ランダムネスの基本原理が日常的な論理から生まれているにもかかわらず、そうした原理から引き出される結論の多くが直感に反していることだ。そんな気持ちも著者レナード・ムロディナウは理由を説明する。パターンを探し何かパターンが見つかるとそれに意味を与える人間の本性や、人間が過去を再構築する時、最も生き生きした記憶や回想しやすい記憶を重要視してしまう。それによって正しいものの見方ができなくなってしまうと言う「可用性バイアス」、あるランダムな連続が何か特別な能力によってもたらされているとする勘違い「ホットハンド誤謬」などの心理学的な研究成果に基づいてモヤモヤする気分に陥る理由にまで答えている。
「能力は偉業を約束してはいないし、偉業は能力に比例するわけでもない。だから重要なことはその方程式の中の別の言葉――偶然の役割――を忘れないようにすることだ。ある分野でもっとも成功した人間をスーパーヒーローと考えることは悲劇ではない。しかし、自分自身を信じるのではなく専門家や市場の判断を信じ、そのために諦めてしまうのは悲劇である」。
とりわけ私が学んだことは、前向きに歩き続けることだ。なぜなら、幸いなことに、偶然がかならず役回りを演じるので、成功の一つの重要な要素、たとえば打席に立つ数、危険を冒す数、チャンスを捉える数が、われわれのコントロール化にあるからだ。失敗のほうに重みをつけてあるコイン投げでさえ、ときには成功が出る。あるいは、IBMのパイオニア、トーマス・ワトソンが言ったように、「もし成功したければ、失敗の割合を倍にしろ」ということだ。私たちがコントロールできる「努力」と何度も試みれば成功の確率を上げられるというまではコントロールできる「偶然」の作用は、コントロールできない遺伝的要素などの生来の才能と同じくらい重要なのである。
軽はずみなことから末永く幸福になれるものなら、誰も苦労はしません。(P.23)
幸福は持続しません。ミチルについて語るとき、私はこの格言を特に強調したい思いにかられます。産みの母と死に別れた幼児期からはじまって、この日まで、そして今後例外なく、ミチルの身の上に常にまとわりついて離れない格言だからです。ミチルの幸福は決して長続きしない。(P.71)
お金はお金でしかありません。お金は何かほかのもの、あなたの人生を幸せにするものに換えてこそ価値を持つのです。(『【その日】から読む本』第二部・第7章)ちなみに、宝くじや『【その日】かた読む本』の内容は出来てきますが、物語の主題ではないので、宝くじのネタを目当てに読むと肩透かしを食らいます。でも、興味深かった。
過去の出来事を完全に切りはなされて続いていく現実、そんなものはありません。あるとすれば、やはり、それは見果てぬ夢としか言いようがなく、いつかは肩を揺すられて、地続きの現実に呼び起こされる時が来ます。何かものごとが起きたとき、判断を見失ったことが、だれもが犯しがちな小さな過ちを、特別なことは「何も考えない・しない」放心状態で足を止めているだけのことが、事態を思いもよらぬ方向へと転がしていく。「何もしない」なんて、「目の前の事を回避するためだけに行動する」なんて、誰でもするのに。
コナミデジタルエンタテインメント
¥ 2,430 (2010-03-18)
Amazonおすすめ度:
|
無料(フリー)のパラドックスがある。料金をとらないことで、大金を稼いでいる人々がいるのだ。すべてとは言わなくても、多くのものがタダになっていて、無料か無料同然のものから一国の規模の経済ができているのだ。それはどのようにして起こり、どこへ行こうとしているのだろうか。
数十億枚の替え刃を売ることで、今やこのビジネスモデルはすべての産業のお手本となった。携帯電話をタダであげて、月々の使用量をとる。テレビゲームの端末を安く売って、ゲームソフトを高く売る。オフィスにタダでおしゃれなコーヒ−メーカーを設置させて、高いコーヒーのパックを売る。
潤沢な情報は無料になりたがる。希少な情報は高価になりたがる。
ここでは「潤沢」な情報と「希少」な情報の限界費用を考慮している。低い限界費用で複製、伝達できる情報は無料になりたがり、限界費用の高い情報は高価になりたがる。だから、皆さんはオンラインで本書のコピー(潤沢でコモンディティ化された情報)を無料で読める(アメリカ国内で期間限定で、グーグル・ブックスやスクリブドで無料公開された)。一方、私が皆さんの町まで行って、皆さんのビジネスに合ったフリーに関する話をするのは別だ。私は喜んで飛んでいくが、皆さんは私の(希少な)時間に対してお金を払うことになる。私は子だくさんで、子どもたちの学費も高いので、私への報酬が無料になりたがることはない。
「私たちの脳は希少性にとらわれていて、時間やお金など、自分が十分に持っていないものに心が動きやすい。それが私たちを突き動かすのだ。足りなかったものが手に入れば、私たちはそのことを忘れて、自分がまだ持っていないものを見つけて追い求め始める。私たちは自分が持っているものではなく、持っていないものによって突き動かされているのだ」
ほかにも何百と存在する。すべてのモデルが立脚するのは、無料のものにも価値があり、人間の行動を通じてその価値をはかることができるという考え方だ。人々が何に価値を置くのかを知るには、彼らが自分の時間を使って何をするのかを調べるのが最良の方法だ。私たちはより多くのものに囲まれるようになったが、一日の時間が増えることはない。
フリーは魔法の弾丸ではない。無料で差し出すだけでは金持ちにはなれない。フリーによって得た評判や注目を、どのように金銭に変えるかを創造的に考えなければならない。その答えは一人ずつ違うはずだし、プロジェクトごとに違うはずだ。その答えがまったく通用しないときもあるだろう。それは人生そのものとまったく同じだ。
「マスコミを使ってたたいても、パンゲアの連中が手を引かない場合は、訴訟にもっていって長期戦で疲弊させるか、投機筋の資金を使って一気に締め上げるかだな。・・・・一流企業に喧嘩を売るとどういうことになるのか、骨の髄まで思い知らせてやろうじゃないか」
「人生のリアリティーって、努力しても夢はなかなかかなわないというところにある。でも、どんな人でも努力すれば相当なところまで行けることも確かだと思う。読んだ人にとって生きる指針や勇気づけになるような小説を書きたい」
≪第一種疑似科学≫
現在当面する難問を解決したい、未来がどうなるか知りたい、そんな人間の心理(欲望)につけこみ、科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの。これには占い系(お御籤、血液型、占星術、幸運グッズなど)、超能力・超科学系(スピリチュアル、テレパシー、オーラなど)、「疑似」宗教系がある。主として精神世界に関わっているのだが、それが物質世界の商売と化すと危険性が生じる。
≪第二種疑似科学≫
科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの。これには以下のようにいくつかの種類があって、物質世界のビジネスと強く結びついている。
(a)科学的に確立した法則に反しているにもかかわらず、それが正しい主張であるかのように見せかけている言説。永久機関やゲーム脳が典型的……
(b)科学的根拠が不明であるにもかかわらず、あたかも根拠があるような言説でビジネスの種となっているもの。マイナスイオン、健康食品などがある。……
(c)確率や統計を巧みに利用して、ある種の意見が正しいと思わせる言説。(略)各種の世論調査も使いようによっては疑似科学になってしまう。また、月齢と交通事故の相関など、見かけ上の相関関係を因果関係として安易に結びつけ、事実誤認させる方法もある。……
≪第三種疑似科学≫
「複雑系」であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在を曖昧にする言説で、疑似科学と真正科学のグレーゾーンに属するもの。この場合、科学的にはっきりと結論が下せないのだから、一方的にシロとかクロに決めつけてしまうと疑似科学に転落してしまう。(略)環境問題や電磁波公害のほかに、狂牛病、遺伝子組換え作物、地震予知、環境ホルモンなど、今社会的な問題になっていることの多くがこの範疇に入る。……
(なぜ疑似科学について書くのかという問いに対して)不十分ではあれ問題を提起しておく必要を感じたためと答えたい。複雑系に絡む問題がさまざまに起こっており、それをどう扱うべきかについて社会的合意が得られていないことが背景にある。(略)複雑系の問題は、特に未来に対する影響が大きいのだから、このまま手を拱いていると次世代に大きな禍根を残すことになりかねない。
私が言いたいことは、「疑った上で納得すれば信じる」ということである。そうであれば、何を信じ、何が信じられないかの区別がつくだろう。信じることをいったん留保して、疑い続けねばならない場合もあることを学ぶ必要もある。
(略)
わかっていること、わかっているが知らないだけのこと、わかっていないこと、それらをきちんと区別して話し、それなりに理解して次に進むという段取りを取るべきだろう。
お金では計れない価値があるからペンダントトップにしてあるということです。お金で計れないとなると、そのひとの心で計られた価値がある。心よりも大事なものは、この世にありませんから。場合によっては命よりも。
(中略)
金銭的に価値のあるものを大事に懐に抱くのは当たり前で、誰が見ても粗末なもの、それが粗末であればあるほどその持ち主には精神的な価値を有している。
生き方に影響を与える人と人の出会いは、まさに「縁」だと浩二郎は思っていた。そしてそれは、会っている時間の長さ、回数などではないことも感じている。互いが共鳴し合うには、一刹那で十分な出会いが人生にはあるのだ。